大関ヶ原展 その2

皆さまご機嫌いかがでしょうか。
今年のゴールデンウィークは最大で16連休になるとかだそうで、すでに連休を満喫しておられる方もいらっしゃるかと思うと、実に羨ましく感じられます。とはいえ、あまり休日が続くと、五月病に罹患する危険性が高くなるような気がします。特に大学生は危険だといいますね。とはいえ、昨今の大学は国民の祝日でも授業を行ないます。最高学府としては休日など甘え、ということでしょうか。

さて、大関ヶ原展で見てきた文物、最初に取り上げるのはこちら。

『蜻蛉切(とんぼぎり』

最近流行のゲームだと、頼り甲斐のありそうなマッチョマンに擬人化していることでお馴染み?の、「天下三名槍」の一本です。
徳川家康の家臣で徳川四天王の一人、本多平八郎忠勝が愛用した槍として知られます。

この人が本多忠勝さん (wikimediaより)

この人が本多忠勝さん
wikimediaより

作は村正一派の刀工で、“三河文殊”と称された藤原正真。製作時期は室町時代。忠勝が槍を立てて休んでいたところ、槍の穂先にとまろうとした蜻蛉が、そのまま真っ二つになってしまったことから、蜻蛉切という名前がついたといいます。

サイズは刃の長さが約43.7cm、茎(なかご)が約55.6cm。幅が2.4cmから最大で約3.75cm、重ね(厚さ)が約1.05cm。断面形状は平三角造、全体の形状は大笹穂といって笹の葉のような形をしており、合戦用の大身槍(刃長約33cm以上)の中では大型のタイプになる そうですが、戦国時代的には標準サイズなのだとか。

刃にはカ、キリーク、サという梵字三字(それぞれ地蔵菩薩、阿弥陀如来、観音菩薩を表します)と、仏具である三鈷柄剣が 刻まれています。命のやり取りをする戦国武士の信心深さがうかがえますね。

この槍を忠勝が使っていた頃は、長い柄の先に装着されていました。特に彼が武田信玄の軍勢から主の徳川家康を逃がそうと、殿(軍勢の最後尾)を 務めた一言坂の戦いの際、それまでの約3.9m長の柄から、青貝螺鈿の装飾が施された約6m長のものに取り替えて奮戦したそうです。その目覚しい働きから、「家康に 過ぎたるものが 二つあり 唐の頭に 本多平八」と、武田の武士たちに褒められたとか。

ちなみに、忠勝は年齢を重ね、体力の衰えを感じてきてからは、柄の長さを約90cmほど切り詰めて、体に合わせて使用したそうです。ただ、残念ながら柄の部分は現在は伝わっていません

なんとも攻撃的な槍を持っていた忠勝ですが、一方で鎧は動き易さを重視してか、軽装を好んでいました。それでも生涯57度の合戦に挑んで、一度も傷を負わなかったといいます。同じ徳川四天王で、赤備えで知られた井伊直政が、重装備にもかかわらず毎回怪我をしていた、というのとは実に対象的です。

槍という武器は、長い柄をもった武器の中では代名詞的な存在であり、特に戦争に多くの兵士が駆り出されるようになってからは、便利な武器として大量に生産・使用されるようになりました。そのポイントとなるのが茎(なかご)です。それまでは刃の下に袋と よばれるソケット型のパーツがついており、その中に柄を差し込んで固定していましたが、刃の下から直線的に伸びる茎を柄の方に差し込んで 固定する形式が生まれたことで、製造が簡単かつ壊れにくい構造となり、「刺す」という単機能に特化した扱い易さから、一気に普及したといいます。

従って、世の中に出回った槍の多くは大量生産品だったわけですが、この蜻蛉切は、身分の高い武士の象徴として、また愛用の武器として、それらとは一線を画す独特の風格を備えているように感じられました。

そうそう。蜻蛉切は村正派の刀工が鍛えた槍で、村正は徳川将軍家に祟る呪いの刀という伝説がありますが、真偽の程は定かではありません。ただ、江戸幕府の支配が進むにつれて、村正を持つことを遠慮する風潮や、徳川家に仇をなす刀である、という伝説ができあがっていったことは確かなようです。何故なんでしょうね?

 *擬人化された蜻蛉切によれば「村正は悪いやつではない」のだそうですけども。
 *折角なので、最後にちょっと難問を。刀の問題も文化史で出る場合が稀にあります。

 問:次の文の空欄を埋めましょう
 鎌倉時代の刀鍛治としては、京都の【 A 】、鎌倉の【 B 】、備前の【 C 】が有名である。

答:A 粟田口吉光、B 岡崎正宗、C 長船長光
  ちなみに甲冑師ときたら、まず八割は「明珍」です。
 ←答えはここまで

では、また次回に。