大関ヶ原展 その4

すでに京都会場での展示が始まってしまったので、もはや両国へ出かけて行っても開催されているのは『花燃ゆ』展であるということはさておき、大関ヶ原展で見たステキな展示品紹介のラストとして、今回の記事を書きたいと思います。

ラストで取り上げるのは、こちら。

直江状

大河ドラマの主役にもなった、“義と愛”の武将・直江兼続が、徳川家康に送った書状です。

直江兼続という人は、越後(現在の新潟県)・会津・米沢と移った大名上杉氏の家老として、手腕を振るった人です。有名な上杉謙信の後、その養子上杉景勝を補佐して後継者争いを制し、内政・外交を取り仕切りました。当時の上杉家では主君の景勝を「御屋形」と呼ぶ一方で、兼続を「旦那」と呼んでいたそうで、主君と家老というよりは、両者連立の二頭体制に近かったことを想起させます。

上杉家が豊臣家に従うようになってからも各所で活躍し、秀吉から豊臣姓と山城守の官位を授けられました。(結構秀吉は豊臣とか羽柴の苗字をバラまいてはいますが)

1598年(慶長三年)、秀吉の命令で上杉家が越後から会津へ移った(伊達政宗を抑え込むために同地へ封じられていた蒲生氏郷が死去したため、その替わり)際には、兼続に与力分含め30万石もの領土が与えられています。ちょっとした大名以上の待遇を受けているのは、それだけ上杉家の重鎮であり、日本中にその名を知られていたということを表していると言えるでしょう。

その直後に秀吉が死去すると、よく知られているように徳川家康が石田三成を筆頭とする抵抗勢力を退け、徐々に政治を牛耳っていきます。そうした状況下で、上杉景勝は長年過ごした越後から会津に移ったということで、新しい領地を治めるために城を築いたり、街の整備をしていたりしました。

ところがこの上杉家の動向について、上杉家から出奔した藤田信吉という人物や、上杉家の後に越後に入ったものの、なかなか上手く領地を治められず苦労していた堀秀治などといった人物が、「戦争の支度をしている」「謀反の疑いがある」と、家康に讒言を行ないました。

家康はその真偽を確かめるため、秀吉の政治顧問でもあった名僧西笑承兌(さいしょうじょうたい)を通じて、景勝に上方へ上洛し、起請文を提出して、謀反の嫌疑をはらすように命令しました。西笑承兌は、九ヶ条の書状を上杉家宛てに出し、家康の意向を伝えます。

これに対し、上杉家の内政・外交を一手に仕切る直江兼続は、極めて長大な反駁の書状を送り返しました。これが直江状です。

直江状の具体的な内容は、便利なWikipediaなどを見ていただくこととして、その概略をかいつまんで申し上げますと、

「景勝に関するウワサは事実無根だから気にしなくていいっすよ。あと、上洛とか国替えしたばっかで忙しいしこっち雪ばっか降るからマジ無理」

「起請文とか意味無いから必要ないっしょ。景勝は律義者ッスよ? と、讒言した連中の言い分はちゃんと調べてんの? してないなら家康サンも下心ありッスね」

「最近は何でも思い通りになっていーですねー」

「武器を集めてるのが謀反の兆しとかいいますけど、私ら田舎武士はこれが普段の心がけですから。上方武士が茶器とか揃えて喜んでんのと同じ同じ」

「道路工事なんかは必要だからやってんですわ。周りに攻め込むために作ってるとかマジ笑える。上杉がこの辺の連中潰すのに道なんか不要だし、左手一本で勝てるレベル」

「上洛はこっちのタイミングでするから。逆心もないから。世間は分かってると思うよ。ウチを出てったクソ虫の言い分と、謙信以来の上杉の誇りと、どっちを信用すんのさ?」

「なんかハナっから疑いたいみたいなんで、申し開きとかはやめときますね」

「じゃあの」

この時、直江兼続は40歳。徳川家康からすると一回り以上下の年齢で、しかも目下の人物にこんな内容の書状を送りつけられるとは思ってもみず、あまりの無礼さに声を失ったとも言われます。その後、結局上杉景勝は上洛も申し開きもせず、家康は会津征伐へと出陣し、関ヶ原の戦いへとつながっていくのでした。

とはいえこの直江状、本当に直江兼続が書いたものなのかどうか、真贋議論があるそうです。まあ真偽のほどは専門の皆さまにお任せしておくとしても、これほど激しい内容の文書が直江の手になるとして伝わっていることに注目すると面白いかもしれません。

直江さんは世間一般に義と愛に厚い清廉潔白な好青年、というようなイメージがあるような気がしないでもないですが、宿敵伊達政宗に対しては面と向かっても常に無礼な態度をとり続けていたこと、また過誤で使用人が殺された際、慰謝料でも兼続の説得でも納得せず、あくまで家族の命を返せと迫る遺族に対し、「それほど言うなら閻魔大王宛に命を返してくれるよう書状を書くので、自分たちで行ってきてくれ」と全員殺してしまうなどの逸話(これも後世の偽作らしいですが)を与えられていることなどとも併せて、彼も戦国時代の武将らしく、非常に苛烈で厳しい人格の持ち主であったことが想像できはしないでしょうか。

ちなみに、彼の兜の前立として有名な“愛”の字、人間愛とかLOVEとかではなく、愛宕神社の“愛”である可能性が高いそうです。自分のポリシーを表現したのではなく、神仏の加護を期待していたということでしょうか。

最後に、関ヶ原関連として有名な人物名を聞く問題を。

問:「五大老」「五奉行」を全員挙げなさい。

答:「五大老」徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝
  「五奉行」浅野長政、増田長盛、石田三成、前田玄以、長束正家
  *五大老格としては当初、小早川隆景も入っていましたが死去により。上記の5人となります。
(答えはここまで)

それでは、また。