埋立地 その3

春一番は吹いたという話ですが、寒さが戻ってきました。しかしながら既に3月ではあり、来年の受験シーズンに向けてはそろそろスタートの時期です。
終戦直後の国鉄に関する重要単語の確認をしつつ、根岸湾がどのようにして工場地帯へと変化したか、まとめてしまいましょう。

根岸湾一帯の埋立工事そのものは、都市計画に基づいて明治時代から行なわれていました。明治2(1870)年から明治6(1873)年に行なわれた、堀割川掘削時に出た残土を利用してその河口を埋め立てた波止場工事が、その端緒となります。
*根岸湾に注ぐ川は掘割川と大岡川分水路の2つが主なもので、どちらも人工の川です。横浜の発展・ 防災のために掘削された川でした。

その後、明治22(1889)年には杉田近辺で大規模な住宅用地造成が行なわれた記録が残っています。また、明治31(1898)年には工業用地の埋立出願があったということで、早くから工業地帯化させるプランが存在していたことが分かります。

同時に、明治から大正にかけて、海岸沿いに横浜とそれ以西を移動する際のルート確保のため、屏風ヶ浦海岸沿いの埋立が行なわれています。屏風ヶ浦は海の侵食によって作られた50mあまりの断崖がそびえたつ、風光明媚な場所として知られていましたが、円滑な交通の妨げとなっていました。そのため、海岸線を埋め立てて道路を整備し、大正3(1914)年には県道(現在の国道16号線)が開通しました。
*汐見台とか、いかにもな地名もありますしね。なんとなく、埋め立てられた地域は察しがつくかもしれません。はい。

埋立事業は大正に入ってからさらに進行させる計画でしたが、地元漁民の反対運動が根強く、実現には至りませんでした。これは同時期頃に根岸湾の水産業が確立されていった様子を考えれば、納得できます。

しかし、太平洋戦争が始まる頃になると、軍需工場の用地として杉田近辺の埋立が進行。根岸では大日本航空の飛行場用地とするための 埋立が行なわれました。
*大日本航空株式会社は、昭和15(1940)年、根岸に日本初の飛行艇専用民間飛行場を開設しました。“世界最優秀”と名高い二式大艇も就航していたそうです。行き先はパラオ方面でした。この話はまた近々ということで。

さらに昭和16(1941)年には磯子杉田町地先公有水面埋立計画と呼ばれる根岸湾を臨海工業地帯とする目的をもったプランが浮上。市議会で議決されましたが、戦争の激化に伴って一旦お蔵入りとなります。

ところが終戦後の昭和26(1951)年ごろにこのプランが再浮上します。これは桜木町から根岸を経由して大船まで到達する国鉄根岸線の敷設プランと歩調を合わせたものでした。

*根岸線敷設の話が出たので、終戦直後の国鉄に関する重要単語の確認を。【  】内に入る単語はなんでしょう?

・昭和24(1949)年に発生した国鉄三大ミステリー事件とは、【   】、【   】、【   】の三つで、いずれも【   】の犯行とされた。これには米軍が日本を反共の防波堤とするための陰謀であったとする説がある。

根岸湾で水産業を続けていた屏風浦漁業協同組合はこのプランに対して根岸・本牧の漁協と一緒に反対しましたが、横浜市の都市発展を進行させてほしいという世論の高まりをうけて反対を断念。昭和34(1959)年、根岸から杉田までの海を埋め立てる工事が始まり、5年後に完了して現在のような工場が立ち並ぶ街が形作られていったのです。

以上のような経過を見て行きますと、根岸駅前の記念碑は横浜発展のために海を離れざるを得なかった漁民の思いが詰まった、大切な碑であると言えるでしょう。駅を出てすぐの場所でちょっと読みづらいかもですが、お立ち寄りの際にはぜひ。
*今回は主として磯子区役所のページを参考としました。

というわけで、また次回です。

*国鉄三大ミステリー事件は下山事件、三鷹事件、松川事件で、いずれも国鉄労働組合員の犯行とされました。当時の日本、米国、朝鮮半島、中国、ソ連の関係性を背景にしてみると、米軍陰謀説があるのも分かりますね。