お城巡りというと、復元された立派な天守などの構造物を備えたお城を見にいく、という方が観光っぽいですが、日本中には中世から戦国にかけて大量の城が築かれましたから、本格的に城巡りをしようと思うと、建物が残っていない遺構を見に行く機会の方が圧倒的に多くなります。いわゆる、「廃城 紀行」とでも言えばよいでしょうか。それ専門の本も出ていたりします。
*そういえば、江戸時代初めに城をぶっ壊せという命令がありましたよね。
・1615年に出された、江戸幕府が諸大名の居城以外の城を全て破却させた法令をなんというでしょう。
答:一国一城令
さて、今回の河津城跡ですが、その来歴については案内板がありますのでそれを参照してみます。
この案内板の左側の絵のように、中世から戦国にかけてのお城は、今よく目にされるような石垣や櫓(やぐら)、天守を備えたような城というのは一般的ではなく、自然の地形を利用して、守りやすく攻められにくい構造に仕立て上げた戦闘用の山城が、数多く見られるものでした。
こうした純粋に戦闘用の城の場合、城主は居住しておらず、普段は平地にある館などに住んでいました。そして敵が攻めてきたら城に入って応戦する、というような使われ方をされていた、とかいいます。
ちなみにお城はあんまり木や草がボーボーになっていると良くないです。目隠しや戦闘用の資材(矢柄に使う篠竹など)として植えてあるならともかく、現在の憩いの場、市民公園っぽい植生だと、邪魔だったり敵が攻め込みやすくなったり、果ては根が育ちすぎて土塁や石垣を壊したりします。
で、河津城は案内板の説明にありますように、駿河の大名・今川氏の食客から身を起こした北条早雲(伊勢新九郎、あるいは伊勢宗瑞とも)の伊豆攻略過程で攻撃を受け、落城したということです。
*今川氏、北条早雲といえば連想される頻出ワードがありますね。
・今川氏、小田原北条氏が定めた分国法をそれぞれなんといいますか。
答:今川仮名目録(今川氏)、早雲寺殿二十一箇条(小田原北条氏)
それでは次回は、河津城主だった蔭山氏について、ちょっとだけ。