河津城跡 その3

河津桜の頃に出かけた話題を引きずっていたら、いつのまにかソメイヨシノも散っていました。新年度ですね。

さて、河津城主であった蔭山氏について調べてみましょう。
案内板によると、河津城は、蔭山勘解由という人の時に築城されたといいます。

*この河津城初代は、鎌倉公方足利持氏の七男・広氏という人だそうです。この人が河津の地侍であった蔭山氏に婿入りして、「蔭山勘解由」と名乗って河津城を築いた、といいます。彼が河津に入ってきたのは永享の乱の余波を避けるためだったので、大体1438年ごろ。

その後、1491年に北条早雲が伊豆攻略を開始し、河津城も彼によって陥落させられます。この時北条方が仕掛けた火攻めの残骸である、炭化した米がお城から出土する、というのはなかなか凄い話。
*蔭山方は、消火のための水が不足していたので、備蓄していた米をかけて消火活動を行なおうとしたのだとか。

河津城跡の頂上にある案内板

案内板。


河津城跡の頂上にある米俵のオブジェクト

それゆえにか、米俵のオブジェクト。

ただし、これによって蔭山氏が滅亡した訳ではないようで、そのまま北条氏に仕えることとなり、河津城は安堵されたっぽいですね。

*蔭山勘解由の勘解由、これは官名から来た通称と思われますが、そこで問題。

・「勘解由使」について説明しなさい。

解答例:8世紀末に桓武天皇によって設置された令外官(りょうげのかん)。国司交代の際に、後任者が前任者に発行する解由状を検査し、国司交代の 不正を防ぐことを役割とした。
*ちなみに「~使」という官職名がついていると、だいたい臨時とか規定外で設置された官です。

さて、この蔭山氏が歴史の表舞台に再び上がることになるのは(河津城攻めが表舞台だったかはともかくとして)、小田原北条氏が滅んだ後のこと。
キーとなるのは当時河津城主だった蔭山氏広という人と、その結婚相手になります。

蔭山氏広のお相手は、武蔵小机城主(新横浜の側の小机ですね)北条氏尭の娘とか、田中泰行の娘で北条氏隆の養女説などがある女性です(正確なところは分からないようです)。
彼女はもともと上総勝浦(今の千葉県勝浦市)城主・正木時忠の息子で、小田原に人質として預けられていた正木頼忠の妻でした。
二人の間には為春、万という一男一女が生まれましたが、頼忠が兄と父が急死したために、正木氏の当主となるべく勝浦に戻る際、妻と二人の子は小田原に残されます。
*正木氏はもともと北条氏と敵対していた里見氏に近かったため、地元に戻るにあたっては北条色を消したかったのでしょう。

残された妻は、河津城主であり、小田原に出仕していた蔭山氏広と再婚しました。この時、連れ子として娘の万を伴ったようです。
で、なんだかんだあって豊臣秀吉によって北条氏は滅亡します。蔭山氏広も伊豆を攻撃した豊臣水軍に屈し、降伏しました。

その後、蔭山氏広の元で育った万は、伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門の養女となりますが、北条氏の後に関東を支配することになった徳川家康に三島だか沼津だかで開かれた宴の席で見初められます(家康52歳、万17歳の時だったとか。あらあら~)。
そして、家康の寵愛を受けた彼女は、1602年に長福丸翌1603年に鶴千代という二人の息子を産みました。

この二人の子供、成人して前者が紀州徳川家初代・徳川頼宣、そして後者が水戸徳川家初代・徳川頼房となったのです。

*徳川御三家のうちの二家が彼女の子供から始まり、しかも江戸幕府八代将軍・徳川吉宗以後は、紀州・水戸両家出身者によって将軍職が引き継がれています。

優れた子を産んだ万は於万の方、蔭山殿などとよばれ、17人いたという家康の側室たちの中にあっても別格の存在となります。

彼女の養父家である蔭山氏は、そのお陰(プラス、鎌倉公方家の末裔という血筋に対する憧れも入って)か、徳川家臣団に組み込まれて養父氏広は家康に仕え、その子孫も幕府の役職を歴任しました。

また、里見氏が小田原攻めに遅刻したことで上総を失って以来、実父の家である正木氏は没落していましたが、万が家康に愛されたことで、彼女の兄である為春が紀州徳川家に仕えて家老となるなど、再び盛り返すことができた、と言えます。

という、徳川氏と河津の意外なつながりでした。でもやっぱり河津桜祭では、蔭山氏は推されてなかったですね。城までの道路案内をもう少し出してくれてもいいんですよ!

場所は多分この辺です。

今回は『徳川諸家系譜』『南紀徳川史』『小田原北条記』などを参考としました。

*最後にもう一問。水戸家ということで、この人も彼女の孫にあたります。

・徳川光圀が編纂を始め、1906年に完成した神武天皇から後小松天皇までの歴史を叙述した歴史書の名前を答えなさい。

答:『大日本史』。この本の編纂過程で水戸学、尊王論が形成され、尊王攘夷論へとつながっていきます。

それでは、また。

河津城跡終わり

ああ、つかれた。