アメリカ人宣教師の宿舎 その3

お寺そのものが由緒ある寺だということは分かりましたが、それでは幕末開港時、この成仏寺で過ごしていたアメリカ人宣教師たちがどんな人たちだったのか、最後にそれを確認しておきます。

世界史的有名事項も含まれますよ。

【ヘボン博士(James Curtis Hepburn)】 wikiはこちら
アメリカ長老派協会派遣の宣教医師です。安政6(1859)年に来日し、成仏寺本堂に寓居しました。文久2(1862)に横浜居留地へ引っ越すまでいたようです。

「ヘボン式ローマ字」で有名な人です。横浜で語学教育、翻訳などを手がけ、明治20(1887)に開校した明治学院(現明治学院高校・大学)では教授(生理・衛生学)を務め、22年10月に初代総理(23年10月まで)に就任しています。
*ローマ字はヘボン式か日本式(田中館愛橘が考案。地磁気だけじゃなかったんかい、と思う人もいますか)があります。かつて活躍したプロ野球選手の新庄剛志選手は阪神時代「SHINJYO」表記のユニフォームを着用していましたが、ヘボン式だとJO、日本式だとZYO。どっちでもないのかと一部で話題になりました。)

宣教医師ということで医者としての側面も持ちました。眼科が専門で、多くの手術を手がけています。ちなみに、最初に治療を行なう施療所を開いたのは同じく神奈川に有った宗興寺です。こちらも色々あるらしいので近々取材してきます。

【ブラウン宣教師(Samuel Robbins Brown)】 wikiはこちら
アメリカ改革派協会の宣教師です。ヘボン博士と同じ年に来日し、成仏寺に滞在しました。同じく語学教育に携わり、文久2年にはヘボン博士と共に横浜英学所で教鞭を取ります。文久3(1863)年、成仏寺から横浜居留地へ引越し、日英会話の本や聖書の和訳などを行ないましたが、慶應3(1867)年、自宅が火事で焼け、帰国しました。

しかしブラウン氏は明治2(1869)、新潟英学校教師として再来日。翌年6月に辞職すると、横浜山手211番地に在住しました。そして9月には横浜修文館の教頭兼英語主任となります。
*修文館は高島嘉右衛門の高島学校を吸収合併した洋学校です。

明治6(1873)年、修文館を辞任し、自宅にブラウン塾を開校しました。これは明治10(1877)年、東京一致神学校(のち、明治学院邦語神学部へ発展)に合流する事になります。
*明治6年と言えば「明治六年の政変」です。重要年号ですが。ブラウン塾開校の年としてはなかなか記憶されていないでしょう。

明治12年に病気で帰国し、翌年亡くなりました。ヘボン博士同様、初期の日本の教育、キリスト教布教に重要な役割を果たした人です。

【バラー宣教師(James Hamilton Ballagh)】 wikiはこちら
アメリカ改革派協会派遣の宣教師です。バラとも表記されます。文久元年に奥さんと一緒に来日し、成仏寺でヘボン博士と共に居住て『聖書』の翻訳などを行ないました。
*バラー宣教師と同表記される別人がいます。こちらはジェームス・クレイグ・バラーといい、弟です。あと、奥さんのマーガレットさんは成仏寺で出産したらしいです。彼女は没するまで横浜で過ごし、横浜外国人墓地に葬られています。

横浜英学校で教鞭をとるなど、やはり教育に携わります。聖書の和訳も行なっていたようですが、火事で原稿を全て焼失するなど、運はなかったようです。

重要なのは、明治5(1872)年に自宅で開いた日本人の初週祈祷会で、これが発展して日本最初のプロテスタント教会(日本基督公会、のち海岸教会) となりました。バラー氏はここで仮牧師に就任し、神奈川から伊豆、信州まで布教活動を行なって、日本におけるプロテスタント布教の先駆けとなりました。

教育面では横浜開港後に生まれた西洋人と日本人のハーフに対する差別を問題視し、アメリカプロテスタント教会の支援の元、三人の女性宣教師を教育者として招き、教育を行なえるようにしました。そして創られた女子寄宿舎学校が、現在の横浜共立学園中学・高校です。

その他にも多くの宣教師が成仏寺に滞在していたようですが、幕末の不穏な情勢下において警護の問題などによって彼らは横浜居留地に移住させられ、成仏寺の役目は終了した、ということになります。

流石にお寺になるといろいろあるものですね。また近々何か見かけたものの歴史を探って行きたいと思います。では。