電信創業の地 その3

さて、横浜の電信創業にまつわる四方山話ですが、そもそも日本に外国から実用的な電信機が到来したところから始めましょう。

嘉永6(1853)年アメリカのペリー艦隊が来航した際、当時の徳川将軍(第12代家慶)に2台のエムボッシング・モールス電信機(ニューヨーク、ノルトン社製)を献上したのがはじめです。ただし、当時は電信を実用化するより他にやることが沢山あったため、特にいじくられることもなくお蔵入りになってしまったそうです。

*1853年のペリー艦隊来航は基本中の基本で、場所は神奈川の浦賀です。翌54年に日米和親条約が締結されます。

*53年の同じく来航した外国の使節としてはロシアのプチャーチンがいます。やってきたのは長崎です。

*ペリーが献上したノルトン社の電信機は郵政博物館に実物が展示されています。

明治維新を迎えると、ようやく電信を実用化してみようかということになり、明治2(1869)年8月に英国人ギルバートを技師として雇用し、横浜灯台局から横浜裁判所に架線して電信を運用を開始しました。これが日本における公式な電信使用の開始です。

*ギルバートさんの雇用期間は3年、その間に日本人技師を育成しようということになっていました。

*横浜灯台局は1868年8月に建設され、翌年7月に灯台局と改称されました。現在横浜みなと博物館から北仲橋を渡って左側の駐車場にあったということになっています。記念碑などは現在ありません。

明治2年9月、横浜裁判所から東京築地運上所間に架線し、東京と横浜に電信機役所(のちの電信局)が開局されました。これで東京と横浜の間が電信で結ばれることとなり、同年12月には公衆和文電信が取り扱われるようになり、サービスが開始されました。

*電信の価格は京浜間で「かな1文字=銀1分(1厘6毛)、配達は1里=銀7匁2分」で、欧文の場合には「20字音信=金1歩(25銭)、住所氏名は6字以内は無料、配達は2里まで無料」だったそうです。明治初期にはそば一杯=5厘だそうですから、文字送るのにどれだけそばを諦めればよかったでしょうか?

とはいえ最初のうちには一般民衆は「これは切支丹伴天連の邪法に違いない」と怖がったり、電線の中をどうやって文字が移動するのか見たいといって一日中電線を眺めていたりなどと、はじめて火を見た原始人のように電信設備を見ていたようです。電信局の方でも断線などがないか役人が菅笠をかぶり馬に乗って見て回るといった塩梅だったそうで、かなりのんびりしたものでした。

その後、日本中に電線や海底ケーブルなどが設置されて、日本列島の通信網が形作られていったわけです。

以上、電信創業の記念碑の背景にはこんなお話があったというまとめでした。次回もまたどこかで何か見つけてきたいと思います。