港町魚市場跡 その3

さて、(ようやく)石碑で言及されている魚市場について補足していきましょう。

石碑の文面はちょっと簡潔すぎて、市場の成り立ちがよく分からないんですが、『横浜開港五十年史』『横浜市史稿』の二書を参照して肉付けしてみます。ちなみにどちらも横浜市立図書館のHPから電子データ版が閲覧できます。便利です。

魚市場ができるまでにはいくつかのステップを踏んでいます。

  1. まず、横浜開港以来、魚市場が港崎(みよざき)町衣紋(えもん)坂(現・横浜公園最寄)にあり、露天で商売していました。
  2. ところが、慶應二(1866)年10月の大火(豚屋火事というやつです)によってこのあたりが全焼したため、境町二丁目の埋立明地に移動して営業を再開。
  3. 魚屋を中心に野菜、鳥を扱う業者も集合し、一大市場となりますが、市場の区域がどこからどこまでとしっかり決まっておらず、生ゴミが散乱してあたり一帯が酷く汚く臭い状態になってしまいました。
  4. そこで同業者たちが集まって協議し、明治三(1870)年三月に吉田新田埋立地に市場開設を願い出て許可されました。
  5. 翌明治四(1871)年に衣紋坂に欧米風の吹貫建築の市場が完成し、これが市場長屋と呼ばれる横浜の市場の端緒となります。

そしてここから嘉右衛門無双がはじまります。

  1. 鮮魚販売だけではない市場の運営を目指す高島嘉右衛門が、市場を移転させる場所を物色中、明治五(1872)年五月、相生町の工部省用地1100坪あまりを競売で買い取り、ここに吹貫建築の市場を建てて、魚・野菜・鳥・獣肉の四品を扱うようになりました。 これを四品市場と呼び、四品市場会社を創立して嘉右衛門が社長に就任します。
  2. この後、嘉右衛門は相生町一丁目から港町一丁目までを通り、大岡川に注ぐ小松川を埋立て、 その土地を借用したいと願い出ます。この工事は数人が希望しましたが、嘉右衛門が競売の結果落札しました。
  3. 工事完了後、埋立地は嘉右衛門が借用する形となり、市場の敷地にしようとしましたが、市区改正によって埋立地は相生町から港町までの道路となったので、市は嘉右衛門に市場用の別の土地を払い下げ、明治七(1874)年にそこに市場が移転オープンしました。これが港町四品市場、つまり石碑が立っている場所にあった市場です。たぶん。

ああ、ややこしい。

さて、嘉右衛門のすごいところは、魚以外の品物を扱う総合市場を作ろうとおもったこと、そして小松川埋立工事を請け負えたことです。

もともと嘉右衛門は土木事業の請け負い業者だったため、得意中の得意ではあったのですが、この時の競売では、神奈川県庁が『小松川から排水する工事の、作業効率が高い計画を提出した業者』に請け負わせる方針でした。他の業者が水車によって排水し、そして埋め立てるという計画を出したのに対し、嘉右衛門のみは『蒸気機関を用いて排水するというプレゼン』をしたそうです。結果、彼は落札に成功しました。

まあ、実はその前に京浜鉄道の用地埋立の際、嘉右衛門は既に蒸気機関を工事に投入していたらしいので、その技術を転用したということなんですが、いずれにせよスチームパンク高島嘉右衛門によって工事は完了し、市場がオープンした、ということですね。

神奈川県令陸奥宗光は、悪肉(品質管理の悪い肉のことでしょうかね)の流通を防ぐため、この市場で肉を集中的に扱うよう命令したそうです。以後、港町市場は他の市場(花咲町、石川町)がイマイチなのを尻目に、大繁盛したということです。

ちなみにこの後、市場はまた移転したりすることになりますが、その際に全てを仕切ろうとする高島嘉右衛門と業者の間で、もめ事が起きたりして、なんやかんや大変だったそうです。

ということで、今の横浜という町ができる過程を教えてくれる内容でした。ほんと横浜はそこらじゅう埋立地ですね。家を買うときは注意しないといかんです。それはさておき、石碑は関内駅南口から市庁舎側に出てすぐなので、暇な時にのぞきに行ってみてください。

横浜港町魚市場跡(横浜市中区港町一丁目)